四條畷の戦い
後村上天皇の御言葉
度々の敗戦に驚いた足利高氏は、腹心の高師直・師泰に 八万の大兵を授けて正行公の元へ向かわせました。
正行公も死を覚悟して吉野の行宮に参代し、 後村上天皇に 「この度は敵も精兵を集めて攻めて来ましたので、 私も生きるか死ぬかの大決戦を致します。 最後の思い出に陛下の お顔を拝してから参りとうございます」と申し上げ、 天皇も「私はお前を自分の手足の如く思い頼っているのだから 決して無理な事はしないように」 と仰せられました。
如意輪堂
天皇のお言葉に正行公は感泣して退出し、先帝の後醍醐天皇の御陵を拝し、 次いで如意輪堂に行き、一族143名の名を留めて、
かえらじと かねて思へば あずさ弓
なき数に入る 名をぞとどむる
の辞世の歌を記して、出陣されました。(この姿の銅像が飯盛山の山頂に建っています)
四條畷の決戦
正平3年正月5日(1348)、三千の兵を率い牧岡の往生院に本陣を置いた正行公は、 一挙北進し、深野池の東、野崎に構える高師直の先陣を打ち破り、 師直に迫ったが替玉に欺かれて取り逃がし、後方との連絡も絶たれ、 深野池の東北にて、弟正時と刺し違え23歳の若さにて殉節されました。